日の出ずる国の天子

日の出ずる国の天子
遣隋使は18年に渡り、5回以上派遣されているが、歴史上有名な遣隋使は、607年、第2回目に小野妹子が遣隋使として派遣されたときのことだ。
日本書紀には第1回目の記述がなく、第2回目からの記述になっている。
 
聖徳太子が隋に送った手紙
聖徳太子が小野妹子に持たせた手紙はあまりにも有名で【日出処天子至書日没処天子無恙云々】(日出処の天子、書を没する処の天子に致す。つつがなきや…)これを読んだ隋の煬帝は激怒した。どうしてそんなに怒ったのか。
まず、日本を「日の出る国」、隋を「日の沈む国」と表現したことに怒った。もう一つは中国皇帝にしか使用されていなかった「天子」という言葉を「日出処の天子」と使ったためだ。聖徳太子にしてみれば、それまでの日本は新羅や百済と外交があったけれども、これからは隋と対等の関係で国交を開きましょうという意味が込められていた。
 
隋からの返書
聖徳太子が持たせて煬帝を怒らせてしまったが、これには返事が書かれた。しかし、この返書を日本に戻ってくる間に小野妹子が紛失してしまったようだ。結局日本に返書は持ち帰ることができなかった。
どうやら、怒った煬帝の手紙はとても持ち帰って見せられる内容ではなく、小野妹子がひそかに処分してしまったと予想される。
しかし、小野妹子はこのことで罰せられたり、責任を取らされることはなかった。実際、その翌年に、第3回遣隋使として妹子は隋に派遣された。
 
現代の国際社会には主権平等の原則がある。聖徳太子は1400年以上前からこの原則を主張していたのだから頭が下がる。