陸奥宗光

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「陸奥宗光」
陸奥宗光は、1844年、紀州藩士・伊達千広の6男として和歌山市吹上3丁目で生まれた。父は紀州藩に仕え、財政再建をなした重臣(勘定奉行)であったが、国学者でもあり尊王攘夷運動を主導したために幽閉され、8歳の時から一家は窮乏の生活を余儀なくされた。
陸奥宗光が、日本の外交史を飾る偉人となりえたのは、小さかったころの苦難とそれを乗り越えるための努力や体験に負うところが大きい。
 
1858年、江戸に出て父の影響から尊王攘夷運動に身を投じ、土佐藩の坂本龍馬、長州藩の桂小五郎(木戸孝允)・伊藤博文などの志士と交友を持つようになる。
 
1863年、勝海舟の神戸海軍操練所に入り、1867年には坂本龍馬の海援隊に加わるなど、終始坂本と行動をともにした。勝海舟と坂本の知遇を得た陸奥は、その才幹を発揮し、坂本をして「(刀を)二本差さなくても食っていけるのは、俺と陸奥だけだ」と言わしめるほどだったという。龍馬暗殺後、紀州藩士三浦休太郎を暗殺の黒幕と思い込み、海援隊の同志15人と共に彼の滞在する天満屋を襲撃する事件(天満屋事件)を起こしている。
 
明治維新後は岩倉具視の推挙により、兵庫県知事(1869年)、神奈川県令(1871年)、地租改正局長(1872年)などを歴任するが、薩長藩閥政府の現状に不満を表し、辞表を出して和歌山に帰った。
1877年の西南戦争の際、土佐・立志社の林有造らが政府転覆を謀ったが、陸奥は土佐派と連絡を取り合っていた。翌年にこのことが発覚し、禁錮5年の刑を受け、投獄された。
 
その後、第2次伊藤内閣に迎えられ外務大臣に就任。
1894年、イギリスやアメリカをはじめとする合計15カ国と、領事裁判権の撤廃を実現。
陸奥宗光が外務大臣の時代に、不平等条約を結んでいた15ヶ国すべてとの間で条約改正(領事裁判権の撤廃)を成し遂げた。
同じ年に起こった日清戦争では、翌年の下関条約によって、日本に有利な条件での終結を導いた。非常に頭が切れ、交渉ごとに際立った成果を挙げることから「カミソリ陸奥」とよばれた。
しかし、この頃、すでに肺結核に冒されていた宗光は、1896年に外務大臣を辞任し、ハワイで療養するも回復せず、東京の自宅に戻った1897824日、54歳でこの世を去った。
 
<陸奥宗光の名言>
「人よりできるだけ少なく苦労して、人より多くの利益を得ようとするのは、意志が薄弱で物事を断行する力に欠けるからである。もし、そうした心が芽ばえたならば、生涯は不平不満な生活をおくるしかないのだ」