津田出

津田出(いずる)
 
天保3年(183233日、和歌山市に生まれる。安政元年(1854)江戸に出て蘭学を学び、紀州藩江戸赤坂邸蘭学所で教授となる。
 
紀州藩は、慶応元年(1865)の第2次長州征伐の莫大な軍事費負担などによる財政難に陥っていた。
慶応2年(1866)藩主茂承は津田出を政治改革総裁に任じ、藩政改革に着手。
津田出の考えていた改革は、武士の制度を廃止して、全員を百姓にしてしまい、彼らに洋式訓練をさせて、近代的軍隊を作り領国の防衛にあたらせるという、まるでヨーロッパの国を思わせるほどの革命的なものであった。
しかし、それは、ほどなく、藩内の保守派の抵抗に遭い、津田出はその地位を追われ、蟄居(ちっきょ・自宅謹慎)処分となってしまった。
 
慶応4年(1868)鳥羽伏見の戦いで幕府軍が新政府軍に敗れた際、紀州藩を頼ってきた敗残兵を江戸へ脱出させたことがとがめられ、藩主茂承は京都に幽閉され、紀州藩は存亡の危機に立たされる。
新政府内にいた陸奥宗光のとりなしもあり、紀州藩は新政府への協力として、近代国家のひな形となる藩政改革に取り組むことを表明し、186811月、津田出は、茂承から藩政改革の全権を任される形で復帰した。
 
まずは藩主や藩士の家録(給料)の大幅削減にはじまり、そのために仕事を失くした藩士の農業・商業・工業への転職を推進した。
一方で、藩の最高機関として「政治府」を置き、逆に、そこには能力次第では、充分に手腕を発揮できる道も用意した。
 
また、「開物局」という通商に関する機関を置き、洋式の技術や洋式の機械を導入する事によって皮革業などの新しい産業を展開した。
 
軍制度に関しては、「武士や農民を問わず、20歳に達した青年たちから選抜した者を交代制で」という志願兵を採用した。
 
さらに、1869年の版籍奉還で、和歌山藩大参事となった津田出は、プロセイン王国から下士官のカール・ケッペンを招いて、ドイツ式の軍制改革を行い、そこでは、陸軍と海軍に分けた軍隊に、傷病兵士のための病院を設置した。
 
さらに、四民平等・国民皆兵の徴兵制をしいた。
 
1871年の廃藩置県の後、津田出は、中央政府に招かれ、大蔵少輔に抜擢された。
津田出を明治政府に招いたのは西郷隆盛で、和歌山県での四民平等・徴兵制導入の見事な改革を耳にした隆盛は、「我々は津田先生のあとについて行きます」とまで言って敬意を示した。
 
明治政府は、これからの進む道、政府の青写真を描ける人物として津田出を招いた。
津田出の藩政改革は、1871年の廃藩置県のお手本となり、軍制改革は1873年の徴兵制のお手本となった。
 
こうして、大蔵省や会計監督局から陸軍に移り、少将となった津田出だが、これほどの才能を持ちながら、この後は、その手腕を思う存分発揮できる役職につけなかった。
 
それは、津田出の才能を評価し明治政府に招いた西郷隆盛が征韓論によって政府内で対立し、1873年、明治政府を辞して鹿児島に帰ってしまったことが大きかった。
薩長藩閥政府の中では、西郷隆盛のような度量の大きい政治家が少なかったため、国民から注目され、抱負の大なるに比して官職に恵まれず、津田出は次第に国政への意欲を減じた。
 
1890年、帝国議会が開設されたときに勅選で貴族院議員になった。
 
大胆な藩政改革を行い、四民平等や徴兵制という近代国家としての日本の姿を導いた津田出は、明治38年(1905)に73歳で亡くなった。