「ペリーが見た日本」

「ペリーが見た日本」
1854年、ペリーは日米和親条約に調印し、日本を開国させるというミッションを実現したが、それ以外にも、未知の国・日本を詳しく観察、調査し、アメリカに資料として残っている。
 ペリーは、日本の女性の地位について「日本の社会には、他の東洋諸国民にまさる美点を明らかに持っている。それは女性がパートナーとして認められていて、奴隷として待遇されていないことだ。日本の母、妻、および娘は、中国の女のような家畜のあつかいをうけていない。日本人が東洋人のなかで最も道徳的であり、洗練されている。
 日本の女性の容姿は悪くない。若い娘はよい姿をして、とても美しく、立ち居振舞いはおおいに活発であり、自主的である。それは彼女らが比較的高い尊敬を受けていて、そこから生じる品位の自覚から来ている。日常の友人同士、家族同士の交際には、女性も加わるのであって、互いの訪問、茶の会は、合衆国におけると同じように日本でも盛んに行われている」
 ペリーが日本の若い女性に惹かれたのは、言い換えると成人女性にはさほど惹かれなかったのは、日本の成人女性はお歯黒(歯を黒く塗る習慣)があったからである。お歯黒は、187025日、明治政府によって「お歯黒禁止令」が出され、徐々に廃れていく。
 
「下流の人民は例外なしに、豊かに満足しており、過労もしていないようだった。貧乏人のいる様子も見えたが、乞食はいなかった。人口過剰なヨーロッパ諸地方の多くのところと同じく、女たちが耕作労働に従事しているのもしばしば見え、人口密度の高いこの国では、誰でも勤勉であり、誰をでも忙しく働かせる必要があることを示していた。最下層の階級さえも、気持ちのよい服装をまとい、簡素な木綿の衣服を着ていた。
 日本人は、一生懸命働き、ときどきの祭日をもって埋め合わせをし、夕方や暇なときには勝負事や娯楽に興じる。
 あらゆる階級の人々はきわめて鄭重で、外国人について知りたがり屋だが、決して図々しくでしゃばることはない。彼らは社交的で、しばしば互いに親しい交わりをむすんでいる」と描写している。
 
ペリーは513日下田を出港し、517日函館港に着いた。
 函館の街路は互いに直角に交差するよう整然と建設され、道幅も広く、排水をよくするために砕石が敷かれ、両側に排水溝があり、排水はこの溝から海に排出される。「函館はあらゆる日本町と同じように著しく清潔で、街路は排水に適するようにつくられ、たえず水を撒いたり掃いたりしていつでもさっぱりと健康によい状態に保たれている」
 
教育については、下田でも函館でも、書物が店頭で売られていた。「人民が一般に読み方を教えられていて、見聞を得ることに熱心だ。教育は日本のいたるところで普及しており、また日本の婦人は中国の婦人とは異なって、男と同じく知識が進歩しているし、女性独特の芸事にも熟達している。
アメリカ人の接触した日本の上流階級は、自国のことをよく知っていたばかりでなく、他の国々の地理、物質的進歩および当代の歴史についても知っていた。」
 
ペリーは、日本を観察した結論として、「人民の発明力をもっと自由に発達させれば、日本人は最も成功している工業国にいつまでも劣ってはいないだろう」「日本人がひとたび文明世界の技能を所有したならば、強力な競争者として将来の機械工業の成功を目指す競争者に加わるだろう」と予言している。
 ペリーは帰国した後も、「あまり年を経ずして、日本が東洋のなかで最も重要な国家の一つに数え挙げられるようになることは、疑う余地がない」と指摘した。
  ペリーは鋭い観察眼で、「日本はいずれ欧米諸国並みの工業国家になる」と予想した。 ペリーの予想は、その後、ものの見事に的中することとなる。