北畠 道龍

 
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北畠 道龍(きたばたけ どうりゅう)
 
文政3年(1820)、和歌山市和歌浦の浄土真宗・法福寺に生まれる。
11歳のころから、仏典、易学、禅学などを学び、武芸も、剣は柔剛流、槍は大島流、柔術は関口流を学び、いずれも免許皆伝というすごさだった。
 
20歳の時、寺務を弟に譲り旅に出て、学問を修めるとともに、諸国の志士と交流した。
 
紀州に帰った道龍は万延元年(1860)260年続いた平和に慣れ、頼りにならない藩士に代わって漁民を訓練した部隊(「法福寺隊」)を結成する。訓練を重ねた法福寺隊は藩主から認められる精鋭隊となり、第二次長州戦争では幕府軍として唯一の勝利を収めた。
 
18681月の鳥羽伏見の戦いの際、紀州藩は逃げてきた会津藩中心の幕府軍をかくまったことを理由に、新政府から紀州藩主・徳川茂承が長く京都に留め置かれることになった。
 
この際、道龍は改革派の津田出を助けて、「国政改革をして、強力な軍隊を整備する」ことを条件に茂承の帰国を実現させた。更に維新後は津田出に加えて、若くして脱藩して明治政府の中枢にいた陸奥宗光も抱き込み紀州藩改革に活躍する。
 
 1871年、廃藩置県が実施されて、北畠道龍は本来の浄土真宗の僧として活動をすることになる。
 道龍は、1876年春に上京し、有楽町に「北畠講法学舎」を設立した。その年の秋までには、3000坪の敷地に校舎が建設された。その創設資金はのちに明治大学を創立した矢代操の尽力によった。学校ができると、道龍は司法卿・山田顕義と談判、講法学舎の卒業生は代言人資格を無試験で与えられることを認めさせた。この特典により、北畠講法学舎は学舎内に訟務局を設け、訴訟代言業務を開業した。
 
 山田顕義は長州出身で、長州戦争で法福寺隊が敗走させた長州勢にいたが、この戦いの経験から、山田はかえって道龍を信頼して、講法学舎を信用したという。
 
1885年、『今日新聞』が「現今日本十傑」を募集し各界のナンバー1を選んだ際には、政治家では伊藤博文、著述家では福沢諭吉、そして教法家では北畠道龍が1位となった。
 
1889年、精神学・歴史学等を専門とする北畠大学を設立しようと妻と共に東奔西走して資金を集め、各方面の理解を得るが、会計係の不正により、大きな負債を負い、計画は崩れた。
 
日本体育共和軍隊(法福寺隊)をつくり、紀州藩政改革や徴兵制創始への参与など豪傑であった北畠道龍は、1907年、87歳で亡くなった。