三十三間堂通し矢

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通し矢の記録を記した『年代矢数帳』(慶安4年〈1651年〉序刊)に明確な記録が残るのは慶長11年(1606年)の朝岡平兵衛が最初である。平兵衛は清洲藩主松平忠吉の家臣で、119日、京都三十三間堂で100本中51本を射通し天下一の名を博した。以後射通した矢数を競うようになり、新記録達成者は天下一を称した。多くの射手が記録に挑んだが、実施には多額の費用(千両という)が掛かったため藩の援助が必須だった。 
寛永年間以降は尾張藩と紀州藩の一騎打ちの様相を呈し、次々に記録が更新された。寛文9年(1669年)52日には尾張藩士の星野茂則(勘左衛門)が総矢数10,542本中通し矢8,000本で天下一となった。
貞享3年(1686年)427日には紀州藩の和佐範遠(大八郎)が総矢数13,053本中通し矢8,133本で天下一となった。これが現在までの最高記録である。
 
和佐範遠の記録が超人的であるため、その後大矢数に挑む者は徐々に減少し、18世紀中期以降はほとんど行われなくなった。
明治以降、通し矢はほとんど行われなくなった。現在は毎年1月中旬に京都三十三間堂で「大的全国大会」が開催されているが、距離60mの遠的競技の形式であり、通し矢とは似て非なる物である。
 
京都蓮華王院(三十三間堂)…全長 121.7m、高さ4.55.3m、幅2.36m