「西郷、兵を知らず」

これは、西郷隆盛が明治政府を相手に西南戦争を戦っている最中に板垣退助が発した言葉である。
西郷隆盛と板垣退助は、明治政府のトップと重鎮でありながら、1873年、征韓論に敗れ、ともに辞表を出して政府を去った。
二人とも戊辰戦争の英雄だが、とりわけ板垣退助は戊辰戦争において用兵に神がかり的な才能を発揮し、連戦連勝の采配をふるった。
その板垣退助からすれば、ともに政府を去った盟友・西郷隆盛は、「西郷は戦争の仕方を知らない」という拙い戦法をとった。
つまり、軍艦を用いて直接東京に進撃すればよいものを陸路をとって熊本城を攻撃した。結果的に西郷軍は熊本城すら落とせずに、鹿児島に退却し敗れ去るのだが、明治政府と戦うのに熊本城攻略は何の関係もない。
それに、かりに熊本の戦いに勝利しても、九州、中国、近畿、中部、関東と勝ち続けることなどとうてい無理だ。
勝つために戦うのなら、断然、海路をとるべきだった。
目の前の小さなことに拘って、明治政府と戦うための戦略を持っていないというところが天才的な戦略家の板垣退助からすれば「兵を知らず」という評価になったのであろう。
西郷隆盛が西南戦争を引き起こした直接の原因は、明治政府が1876年3月8日に廃刀令、
8月5日に金禄公債証書発行条例を発布したことにある。
この二つの法律によって士族は帯刀・俸禄の支給という江戸時代の武士の特権を完全に奪われた。これがきっかけとなり、
10月24日、熊本県で「神風連の乱」
10月27日、福岡県で「秋月の乱」
10月28日、山口県で「萩の乱」と立て続けに士族の反乱が発生した。
西郷隆盛はこれら士族の反乱の報告を受け、痛快に思う心情の外に、自らも「起つと決した時には天下を驚かす」と手紙に自らの気持ちを記している。
1876年、明治政府は、辞表を出して鹿児島へ帰郷した西郷隆盛の動静を探るべく中原尚雄以下24名の警吏を、「帰郷」の名目で鹿児島へと派遣した。
これに対し、西郷に近い鹿児島士族は中原尚雄らの大量帰郷を不審に思い、その目的を聞き出すべく警戒していた。
1877年2月3日、彼らを捕らえ、拷問によって無理矢理「西郷を暗殺する計画がある」と自白させた。
2月4日、政府と一戦を交える事を決定。
2月6日、西郷軍の兵士登録を開始。
2月8日、部隊編成。
2月15日、熊本へ進軍を開始。
2月19日、明治政府が開戦を決定
2月21日、西郷軍が熊本城を包囲。
拷問による自白から開戦まで12日しかなく戦争の準備はなかったに等しい。
板垣退助が「西郷は兵を知らず」というのも無理はない。
政府軍7万、西郷軍3万で戦った西南戦争は
開戦から7ヶ月後の9月24日、鹿児島の城山に立てこもる西郷隆盛をはじめ372名と
政府軍との最後の攻防の結果、西郷隆盛を含めて全滅するという形で終わった。
ところで、西南戦争の政府軍の主力となっていたのが和歌山県の兵士たちだった。和歌山県では明治初期から軍事的に近代的な装備と訓練がなされていて、きわめて有力な戦力となっていた。