「エトワール凱旋門」

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1806年、ナポレオン・ボナパルトの命令で建築が開始され、1836年に完成。
パリの象徴的な建造物の一つで、世界有数の観光名所となっている。
 
凱旋門を中心に、シャンゼリゼ通りを始め、12本の通りが放射状に延びておりその形が
地図上で光り輝く「星:étoile」のように見えるので、エトワール凱旋門と呼ばれる。
 
1789年、フランス革命が起こった。同時に、人権宣言が発表され、第1条で「人は生まれながら自由で平等な権利を持つ」と定められている。人類は、1789年に「自由権」と「平等権」という二つの人権を獲得した。
 
ところが、18世紀のヨーロッパ社会は国王や貴族が人々を支配していた時代だ。人々には「自由権」「平等権」という人権があるという考え方は支配する側にしてみれば、きわめて都合が悪く、人権宣言を発表したフランスを攻撃し滅ぼそうとした。
 
フランスは、人類史上初めて人権を認めたため、まわりのヨーロッパ諸国から一斉に攻撃された。ピンチに陥ったフランスを救ったのがナポレオン・ボナパルトだった。
 
ナポレオンは1769年、地中海のコルシカ島で生まれた。
家庭が貧乏貴族で12人兄弟であったため、ナポレオンは学費のいらない士官学校に進学した。士官学校での成績は58人中42番目だったが、通常なら4年間で修了するところを11ヶ月で修了。1785年、16歳でフランス軍の士官となった。そして、1789年、20歳の時にフランス革命が起こる。
 
ナポレオンは、百発百中の砲術で外国軍を撃退し、一躍、フランスの英雄となった。
1804年、35歳でナポレオンはフランス皇帝に上りつめた。
 
ヨーロッパや地中海沿岸をほぼ手中に納めたナポレオンは、1812年、ロシアを攻撃。6月から60万人という途方もない人数でロシアを攻撃したナポレオン軍は、モスクワまで攻め寄せた。しかし、11月になるとモスクワの最低気温は氷点下35度まで下がり、あまりの寒さに、ナポレオン軍は総崩れとなった。この背景には、ロシア軍が退却するときに家や食料を焼き払い一切のものを残さなかった作戦があった。
 
60万人いたナポレオン軍のうち37万人が戦死。20万人あまりが捕虜となり、ナポレオンとともにフランスへ逃げ帰ったのは5000人ほどであった。
 
戦いに敗れたナポレオンは1815年、南大西洋の孤島・セントヘレナ島へ島流しにされ
1821年に52歳で他界した。元々、胃が悪く、胃がんで亡くなったという説が有力である。30年来、戦争に明け暮れたため、軍用食ばかり食べたため、塩分を取りすぎて
いたことも原因となったのではないだろうか。
 
ところが、ナポレオンの遺体は、今も保存されているが、ナポレオンの遺髪を検査したところ、多量のヒ素が見つかった。このため、毒殺説も登場したが、主な死因ではないと見なされている。
 
ナポレオンの死後、19年たった、1840年にナポレオンの遺体がフランスに返還され、エトワール凱旋門をくぐっている。