「対馬藩の外交努力」

「対馬藩の外交努力」
1592年、豊臣秀吉の命令で始まった朝鮮侵略は、1598年、豊臣秀吉が死ぬまで続いた。しかし、秀吉が亡くなった途端、全軍が朝鮮から引き揚げた。
 
1603年に江戸幕府が成立したが、幕府と朝鮮の橋渡しに力を発揮したのは対馬藩だった。
1609年、己酉約条(きゆうやくじょう)が結ばれ、対馬藩と李氏朝鮮の間で国交が回復した。これにより、朝鮮侵略以来断絶していた朝鮮との貿易が再開された。
 
朝鮮での貿易の拠点となったのは、プサンに設けられた対馬藩の施設「倭館」。「倭館」は海外への渡航が禁止されていた時代に唯一の例外とされた所だ。また、朝鮮からの通信使も倭館から出発した。
 
倭館は10万坪という広大な敷地を有し、長崎の出島が約4000坪なので、その25倍の規模を誇った。
 
対馬藩の役人がここに居住して朝鮮との貿易に従事し、約400500人が常駐していたと推測されている。対馬藩は、藩役人に朝鮮語を学ばせた。
 
倭館の施設は、二つに分かれていて、役人たちが常駐するのが東館、西館は客をもてなす場所で、通信使もここに宿泊した。
 
倭館もやはり日本人の自由な外出は禁じられており、「男だけの町」だった。周りには山があり、なんと、虎が出没して番犬などを食い殺した。
虎が出ると、虎狩を行い協力して退治した。
 
「倭館」での貿易は、日本側からは銀・硫黄や東南アジア産の蘇木などを輸出した。蘇木とは、長崎で陸揚げされたものを転売した。
 
また朝鮮からは米や朝鮮人参・生糸などを輸入した。
なぜ米を輸入する必要があるのかというと、対馬は山ばかりで平地が少なく、米がほとんどとれないからだ。
 
したがって、対馬藩は朝鮮との貿易によって食糧を確保し、藩を成り立たせていた。銀の輸出量は、長崎と比べてはるかに多かった。
 
 
また、朝鮮から日本に漂着した漂流民は、必ず海路で長崎に送られる決まりがあった。それから対馬藩に送られて、最終的には倭館を通して朝鮮に送還された。
 
このように倭館は、貿易だけではなく朝鮮との外交でも重要な役割を果たした。