「勝海舟寓居跡」

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 18634月、勝海舟は、江戸幕府の命により紀州海岸に造られた砲台を検分するために和歌山を訪れた。
勝海舟は、和歌山城下・橋丁の清水平右衛門宅に滞在。この滞在先に「勝海舟寓居跡」の石碑が建っている。南海和歌山市駅から和歌山城(南)に向かって100mほどのところだ。
 
勝海舟は滞在期間中に、和歌浦・雑賀崎・紀の川河口・加太など30数カ所を検分した。
410日には、坂本龍馬が師匠である勝海舟に会うために訪れている。坂本竜馬は外国奉行・大久保一翁の手紙を勝海舟に届けるために来た。
 
勝海舟と坂本竜馬の出会いは、前年(1862年)の12月。坂本竜馬は北辰一刀流千葉道場の主・千葉重太郎とともに開国論者として有名であった勝海舟に反感を抱き、勝邸を訪れ、これを暗殺しようとした。
 
しかし、勝海舟は二人の暗殺者に世界情勢と海軍の必要性を説明し、これを聞いた坂本龍馬は大いに感服し、その場で勝海舟の弟子になった。
 
坂本龍馬が勝海舟に心服していたことは、姉・乙女への手紙で勝海舟を「日本第一の人物」と称賛していることによく現れている。
 
勝海舟は土佐藩主・山内容堂と会って、1863225日、坂本龍馬が土佐藩を脱藩した罪を許すことを認めさせた。
 
坂本龍馬は勝海舟が進めていた海軍操練所設立のために奔走し、土佐勤王党の岡田以蔵を勝海舟の京都での護衛役にし、岡田以蔵は勝海舟が京都の路上で3人の浪士に襲われた際にこれを一刀のもとに斬り捨て、勝海舟を救った。
 
423日、勝海舟は幕府要人と各藩藩主に海軍設立の必要性を説得するために彼らを軍艦に乗せ、体験させた。14代将軍・徳川家茂は、軍艦「順動丸」に乗艦の後、納得して
「神戸海軍操練所」設立を許可。
あわせて勝海舟の私塾・神戸海軍塾の開設も認めた。
さらに幕府から年間三千両の経費が支給されるようになった。
 
 幕府は18541229日に、紀淡海峡が大阪を防衛する上で重要な地点ととらえ、対岸の淡路島の由良浜とともに、台場の新設を命じている。紀州藩は、大砲家・佐々木浦右衛門に友が島砲台築造を命じたが、台場築造の専門的な知識を持っておらず、台場が竣工したのは1863年。
勝海舟が紀州を訪れたのは、友が島砲台を検分することが任務だった。
しかし、造られた砲台は勝海舟を満足させるものではなく、新たな砲台の建設地を探すために紀州の各地を検分している。