駿河屋

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一時、つぶれていた駿河屋が復活し、岩出店が再開されたので「本の字饅頭」を購入した。
12個購入した。31日に行ったところ、たくさんの人でにぎわっていた。なかには「爆買い」している人も。その光景を見て「近鉄百貨店にも店を出したらいいのに」と感じた。
 
駿河屋は、室町時代中期の1461年、山城国伏見九郷の里(現在の京都市伏見区)に、岡本善右衛門が「鶴屋」の屋号で、饅頭処を開いたのが始まりである。
 
5代目岡本善右衛門の時の、1589年(天正17年)に、伏見の桃山城の正門前に店を構えた。
 
1589年(天正17年)に「煉羊羹」を作り豊臣秀吉に献上、聚楽第で秀吉が開いた大茶会で当店のようかんが引き出物として配られて諸大名の賞賛を受けた。
 
徳川頼宣(家康の子)が1619年、紀伊に転封されたとき随伴し、和歌山駿河町に店舗を開いた。そして、江戸時代には紀州藩に菓子を納める御用菓子司を務めた。
 
紀州徳川家に徳川綱吉の娘である「鶴姫」が嫁入りしたことから「鶴屋」ではその御名に憚かるとの藩命が下り、1685年「駿河屋」に屋号を変更した。
 
天明年間に「伏見京橋・駿河屋」が参勤交代の諸大名の休息所として分家して開業し、1811年に「大阪・駿河屋」が天下の台所・大阪の淡路町一丁目(現在の大阪市中央区)に開業するなど江戸時代には一族の分家による暖簾分けが行われた。
 
「練羊羹」の元祖として高い知名度を誇っていたほか、紀州徳川侯が参勤交代で上洛の際の道中食として供された「本ノ字饅頭」など有力な和菓子を製造・販売していた。
 
1876年(明治9年)に開催された第一回パリ万国博覧会に「練羊羹」を出品して金賞を受賞し、後に「練羊羹」などの輸出も手掛けるなど早くから海外への展開も図った。
その後、1950年に「株式会社駿河屋」に社名変更した。
 
伝統ある「羊羹」や「饅頭」、煎餅などの和菓子のみならず、プリンやカステラなどの洋菓子の製造・販売にも行うようになった。
 
しかし、2011年が18.34億円、2012年が17.31億円、2013年が16.46億円と売上高が年々減少して3期連続の赤字となり、2013年は6212万円の赤字となるなど業績の低迷は一段と深刻化した。
 
そのため、2014117日に和歌山地方裁判所に民事再生法の適用を申請し、営業を続けながら再建を模索することになった。
 

2014529日付で全19店舗を閉鎖すると共に、全従業員を解雇して事業を停止した。

 
2014625日に和歌山地方裁判所が破産手続開始の決定をし、73日に所有する不動産や機械などを一括して購入する相手を決める入札が行われ、有田市の医薬部外品製造販売会社「三和インセクティサイド」の会長の田中源一郎氏が約3.17億円で落札し201486日付で本社の土地・建物の不動産などの所有権が田中氏に移転された。
 
土地・建物の不動産などの所有権を取得した田中源一郎氏は、創業家と親交があった。
そこで、創業者・岡本善右衛門の子孫で旧駿河屋の営業主任だった岡本良太を社長とし、田中源一郎氏が100%出資する「株式会社総本家駿河屋」を2014117日に設立した。
 
新会社は旧駿河屋の菓子職人7人を含む従業員15人を再雇用し、旧駿河屋と同様に和歌山市小倉と京都市伏見の2か所を生産拠点とすることになった。
 
再開に当たっては、破綻前の約500品目の中から練羊羹や本ノ字饅頭などの代表的な銘菓約30品目に絞り込み、伝統の味の再現と継承に取り組むことになった。
 
また、本店の再開に先行する形で京都市の伏見店が2015218日に営業を再開し、和歌山市駿河町の旧本店を「駿河町本舗」として同年324日に営業を再開。
 
新会社「総本家駿河屋」はさらに和歌山市内に高松店が2015429日に営業を再開し、次いで、中之島店、海南店、岩出店が営業を再開している。
 
また、「田中源一郎」の関連会社である「ライオンケミカル」が、和歌山市小倉の工場跡地に新工場を建設することになった。