戦火のテヘラン

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1985317日、西アジアで1980年に始まったイラン・イラク戦争でイラク大統領サダム・フセインは「今から48時間後、3 19 20 30分以降にイラン上空を飛ぶすべての飛行機を撃墜する」と発表した。
 
当時、イランの首都テヘランには先進国が資本を出して設立した企業が200社以上あった。そのなかに、日本企業も多数あり、そこで働く人々やその家族は500人以上にのぼった。
 
1985年3月18日
この日、外国の航空会社の便に空席を得て脱出できた日本人は200人あまりいた。しかし、290人あまりの日本人は、脱出できずにまだ残っていた。
この日になってようやく日本政府は、日本航空のジャンボジェットを準備した。
日本航空は、「午後6時までに派遣の指示があれば救出可能」と離陸の態勢を整えていた。
しかし、外務省からは、ついに派遣の指示が出されることはなかった。
「何人が救援を必要としているかが不明のため派遣中止」という連絡が来て、頼みの綱は切れてしまった。
 
1985年3月19日
サダム・フセインが宣告した最終日である。残された日本人のうち、ルフトハンザ、エールフランスの搭乗券を手に入れた80人ほどが出国できた。
しかし、まだ、215人の日本人がイランに取り残されていた。残された人々は出国のすべがなく、絶体絶命のピンチに陥った。
 
ほとんどの救援機が飛び立ち、がらがらになったテヘラン空港に、このとき2機の航空機が着陸した。
それは、トルコ航空の旅客機だった。
 
驚いたことに、トルコ航空機は、トルコの人々を乗せずに、脱出するすべを失っていた日本人に乗れとすすめた。
1機目には、ほとんど日本人ばかり198人が搭乗した。
2機目には、残った日本人17人とトルコの人々が搭乗した。
ぎりぎりの状況で、トルコは、なお日本人を優先した。
こうして、トルコ航空の2機は残された日本人215人全員を救出してイスタンブールへ向かった。イラク軍攻撃のタイムリミットに1時間15分前のことだった。
 
1985年3月20日
トルコ政府やトルコ航空の勇気ある決断によって215人の日本人が危機を脱した事実に、日本では驚きとともに歓喜の声が上がった。
朝日新聞では「このところ、日本がトルコへの経済支援を増強していることが、今回の日本人救出に影響したのではないか」と分析した。
 
しかし、トルコ大使は次のように語った。
「1890年にエルトゥールル号が遭難したとき、日本の和歌山県串本の人々や日本人がしてくださった献身的な救助活動をわれわれは忘れてはいません。トルコの歴史の教科書に掲載されていて、トルコでは子どもでも知っています。」
「今度は、トルコが日本人を救う番だとおもいトルコ航空機がテヘランに向かったのです。」
 
1885年3月18日
3月18日、トルコ航空で緊急ミーティングが開かれた。ミーティングの議題は「テヘランに孤立する日本人を救出する特別機を飛ばすか否か」である。
トルコ航空としては、自社のメンバーに「死地に行け」とは命令できない。
メンバーのほうから「命にかけても日本人を救出したい」と申し出てもらうことが必要だった。
 
ところが、トルコ航空のメンバーたちはすすんで「日本人を救出したい」と申し出、これによってすぐに、救援機2機が編成された。
トルコ政府だけでなく、トルコの民間人も「今度は私たちが日本人を救う番だ」といってくれた。