軍艦エルトゥールル号の遭難

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189067日、トルコの軍艦エルトゥールル号は、トルコと日本の親交を深めるため11ヶ月をかけて横浜港へ到着した。明治天皇はトルコ特使オスマンを歓迎し、日本国民もトルコからの使者をあたたかく迎えた。
 
3ヶ月、トルコへの帰還の準備を整えたエルトゥールル号は、915日、乗組員609名を載せ横浜港を出港した。台風か近づいていることは分かっていたが、横浜ではコレラが流行していて、すでに10人以上の乗組員が犠牲となっていた。
916日、和歌山県串本沖で台風に遭遇したエルトゥールル号は岩礁に座礁し沈没した。
台風の中での沈没で、全員絶望視されるところだったが、串本町大島の住民が決死の救出を試みて609名のうち69名の救出に成功した。救出された乗組員は樫野小学校と大龍寺に収容された。救出された乗組員が69名と多数いたため、あっという間に食料が底をつき、貧しい漁村ではあったが、栄養補給のためになけなしの鶏を供出したりした。
2ヶ月にわたって170あまりの遺体は手厚く葬られた。しかし、370あまりの遺体は、今も、樫野崎沖の海底で眠っている。
 
105日、エルトゥールル号の遭難を知った明治天皇は、ただちに医者と看護婦を串本の大島に派遣した。さらに、生還した69名を軍艦比叡と金剛に載せ、トルコのイスタンブールに届けた。
 
1891年、この事件を悼み串本町大島に慰霊塔が建設された。樫野小学校の児童は、慰霊塔の清掃と花の世話を120年以上続けてきた。また、5年に1度、追悼式典が行われてきたが、それを知る日本人はあまりいなかった。
しかし、トルコの人々はエルトゥールル号の遭難で69名のトルコ人が救われたことが教科書に掲載され、忘れることはなかった。