「陸奥亮子」

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1856年、江戸幕府・旗本の長女として江戸に生まれる。
ところが、1867年に江戸幕府が倒れ、明治維新となったため生まれた家は没落し、貧しい士族の娘となった亮子は、14歳で東京新橋の柏屋に芸者として売られた。
 
しかし、その美貌から新橋で一、二を争う芸者となっていった。芸者でありながら、士族のプライドがあったためか言い寄る男たちを拒絶し、男嫌いという評判をとり、身持ちが堅かったといわれる。
 
18722月、陸奥宗光の先妻蓮子が亡くなったことによって、亮子に運命の転機が訪れる。
独身となった陸奥宗光は、同年5月に16歳の芸者・亮子を見初め、結婚した。二人は運命の赤い糸で結ばれていたかのようだった。
 
亮子にとっては16歳の若さで、芸者から政府高官の妻の座を射止めたことになった。
結婚の翌年、宗光との間に長女・清子(さやこ)が生まれた。
 
ところが、1878年、政府転覆運動に荷担した疑いで夫の宗光が禁固5年の刑に処せられ、山形監獄に収監された。
 
亮子は、宗光の友人の津田家に身を寄せて、前妻の子2人と結婚の翌年に生んだ長女を抱えてよく守った。彼女の眼差しにある種の力を感じるのはそんな理由からかもしれない。
 
1882年、宗光は出獄を許され、翌1883年から伊藤博文のすすめでヨーロッパに留学する。
1886年、宗光は帰国して明治政府に入った。社交界入りした亮子は、「鹿鳴館の華」と呼ばれた。
 
1888年、駐米公使となった宗光とともにアメリカに渡る。その美貌、個人的魅力に加え話術も巧みであり、アメリカでも第一等の貴婦人と謳われ、高い評価を受け「ワシントン社交界の華」「駐米日本公使館の華」と称された。
 
しかし、佳人薄命というか、陸奥亮子は、19008月、43歳で没した。