狩野永徳

「狩野永徳」
狩野永徳は、狩野正信からスタートし、安土桃山、江戸、明治と400年以上続いた狩野派一族の中でも最もその技術や才能を高く評価された第一人者である。
 
狩野永徳は1543年に生まれ、戦国時代末期であったため、権力者であった織田信長、豊臣秀吉から指名され、彼らが築いた安土城、大阪城、聚楽第の障壁画をまかされた。
 
ところが、皮肉なことに、安土城と大阪城は織田信長、豊臣秀頼の滅亡とともに焼失し、聚楽第はそこに住んでいた豊臣秀次が秀吉に切腹を命じられたことにより取り壊された。
 
したがって、権力者の尊敬と寵愛を受けて制作された狩野永徳の障壁画はほとんど残っていない。
 
 
しかも、権力者からの注文が殺到し、寝る間も惜しんで絵を描き続けたため、狩野永徳は、47歳の若さで、突然この世を去る。
おそらく、今でいう過労死であったと考えられる。
 
現在、確実に狩野永徳の作品とされているのは、わずか3点である。
 
 
 
永徳の代表作としてあげられるのは『洛中洛外図屏風』。
これは1565年、狩野永徳が23歳の時に描かれてもので
織田信長が1574年、戦国時代、武田信玄とともに天下無敵といわれた上杉謙信に贈られた。
なお、武田信玄は1573年に他界している。
 
 
1576年から1579年にかけて安土城の障壁画を描き
1583年には大坂城、1586年には聚楽第の障壁画を描いている。
 
1589年には後陽成天皇の住居の障壁画を描いたが、
1590年9月、狩野永徳は東福寺の天井画の龍図を制作中に病気になり、
ほどなく死去した。
東福寺の天井画は狩野永徳の下絵を元に弟子の狩野山楽が完成させたが現存しない。
 
 
 
<狩野永徳の代表作>

 1.唐獅子図 聚光院障壁画(国宝)京都市・聚光院

 聚光院は大徳寺の塔頭で、永徳は方丈の障壁画を父松栄と共に描いた。
永徳が担当したのは『花鳥図』16面および『琴棋書画図』8面。
 
2006年から複製が制作され、オリジナルは京都国立博物館に寄託された。
 
 
2. 洛中洛外図(国宝)  上杉博物館
 京都の中心部(洛中)と郊外(洛外)を鳥瞰的に描いた洛中洛外図の代表作。
1565年に狩野永徳が描き、1574年、織田信長が上杉謙信に贈った。
 
歴史資料としても貴重で、この屏風に描かれた人物の数は約2500人。
 
 
3. 唐獅子図屏風  宮内庁三の丸尚蔵館
1582年、豊臣秀吉が毛利家に贈ったものとされている。
明治時代に毛利家から皇室に献上された。
狩野永徳筆であるという狩野探幽(永徳の孫)の書入れがある。
 
以上は従来から永徳筆とされてきたもので、
美術史家の間には永徳作とすることについてほとんど異論はない。
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