佐伯祐三「リュ・ブランシオン」

「リュ・ブランシオン」(ブランシオン通り)
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油彩 大正14(1925)年 個人蔵
 
 佐伯祐三は大阪に生まれ、大正6年に上京。川端画学校で日本の洋画壇をリードした藤島武二の指導を受け、翌年、東京美術学校(現・東京芸大)に入学した。在学中に結婚し、卒業後の13年に妻子とともに渡仏。
 
 パリに滞在中、当時活躍していたフォービスムの画家、モーリス・ド・ブラマンクを訪ねたエピソードは有名だ。持参した作品「裸婦」を見せると、「アカデミック!」と一喝された。日本で正統的な美術教育を受けた佐伯にとって、芸術の本場で批判されたことは、自己の進むべき道を探る契機となった。やがてパリの堅牢(けんろう)な建物を重厚な筆致で描く独自の作風を確立することとなった。
 
佐伯は何の変哲もない広告塔や文字が書かれた壁などを題材に秀逸な絵画を制作した。
 
 冬のいてつくパリ。画業に没頭すればするほど、戸外の写生は佐伯の体を痛めつけた。喀血を繰り返していたため、静養を兼ねて大正15年に一時帰国。
「リュ・ブランシオン」は、その年の第13回二科展に20点近い滞欧作とともに出品された1点。それらの作品で最高賞の二科賞を受賞し、新進画家として華々しくデビューした。
佐伯祐三はこの作品によほど自信があったらしく、表だけではなく、裏のカンバスにも
サインをしている。これは佐伯の作品は珍しいことだ。
 
 帰国後は、木造の日本家屋が建つ風景などを手掛けた。が、佐伯は「日本の風景が描けない」と、思うように表現できない悩みを周囲に打ち明けていた。その後、昭和2年に再びフランスへと旅立った。
 
 死期を予感したかのように筆致は激しさを増し、1日1枚以上の油彩画を仕上げた。喀血や発熱がしばしば起こり、ついには精神を病み、30歳の若さで死去。「新聞屋」は、死後まもなく始まった昭和3年の第15回二科展に出品された。
 
 佐伯にとって並木道や古びた靴店など、パリにあるものは何でも絵になった。パリがあったからこそ佐伯の絵は誕生した。画家としての活動は5年にも満たない短いものだったが、作品はいまも輝いている。
 
わたしは、藤田嗣治と佐伯祐三の作品をコレクションしたい。けど、佐伯祐三の作品は「リュ・ブランシオン」もそうだが、ひび割れがすごくて状態の悪いものも多い。その辺の見極めをしっかりしたい。