1945年4月沖縄戦

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1945年4月1日、アメリカ軍は18万の大軍でもって沖縄に上陸した。
沖縄を守る日本の守備隊は8万人。熾烈な戦闘が毎日のように繰り広げられた。
 
アメリカ軍上陸直前の3月、沖縄県女子師範学校と沖縄県立第一高等女学校は、戦闘で負傷した日本兵を看護する目的で、15歳から19歳の女学生222名と引率教員18名で「ひめゆり学徒隊」(通称:ひめゆり部隊)を結成した。
 
「ひめゆり」の名は、沖縄県女子師範学校の学校広報誌の名前「乙姫」と沖縄県立第一高等女学校の学校広報誌「白百合」をあわせたものだ。
 
「ひめゆり部隊」は、3月23日から、那覇市の南東5キロの位置にあった南風原(はえばる)沖縄病院で看護要員として貢献した。
 
6月になると、日本の守備隊や民間人は沖縄南部の山岳地帯、真壁、摩文仁へ追い詰められていった。
 
ところが、沖縄戦の敗色が濃厚となった6月18日、突然、解散命令が出された。この日を境に「ひめゆり部隊」に過酷な運命が襲いかかった。6月19日、真壁の第三外科濠で看護を追え、制服に着替えた「ひめゆり部隊」の女学生にアメリカ軍が自動小銃を乱射。
一瞬にして49名もの女学生が亡くなった。
 
6月19日から25日までの一週間で、「ひめゆり部隊」の100名以上が死亡した。「ひめゆり部隊」の犠牲者は136名を数え、そのうち、荒崎海岸では14名が集団自決している。
 
女学生を戦争に駆り出し、敗色濃厚となると女学生を逃がしてやったり、守ってやったりすることもできずに多数の犠牲者を出したことに対して「はたしてそれが許されることなのか。」「ほかに方法はなかったのか。」という思いが沸き起こってくる。
 
6月23日、日本軍沖縄守備隊は全滅した。日本の守備隊、義勇兵、住民の犠牲者はおよそ15万人。アメリカ軍の犠牲者はおよそ6万5000人。