「木曜島と和歌山県民」

「木曜島と和歌山県民」
 
1870年ころ、オーストラリアの北部にある木曜島の原住民が美しい真珠細工を
しているのを見たバナーという白人が「木曜島には真珠がある」と気づき、
真珠の採取を始めた。
これが、木曜島の真珠産業の始まりだった。
 
木曜島で採れたのは白蝶貝で、大きいものは20cmを超えた。
殻が厚く中側が光沢のある銀白色で、洋服の高級ボタンなどに用いられた。
中には、真珠を含むものもあったが、当時、真珠は副産物だったようだ。
 
 
世界的にみて、ボタン材料である貝殻(白蝶貝、黒蝶貝、高瀬貝など)は貴重であり
非常に高価だったため世界中から一攫千金を狙いダイバーが木曜島に集まってきた。
 
ところが酸素ボンベがない時代で、深く潜水するこの仕事は危険が大きかった。
多くのダイバーが潜水病で死亡し、それを見て諦めたダイバーたちは自分の国へ
帰っていった。
 
イギリス人経営者は、マレー人や現地住人などをダイバーとして採用し
事業を続けようとしたが成績は上がらなかった。
 
そんな中、1879年頃から日本人の出稼ぎが増えていった。
 
最初のきっかけは、日本で西洋式近代灯台を設置するためにやってきたイギリス人技師が、灯台のある和歌山県南部の男たちが大量の貝を獲っていることに驚いたことだ。
 
イギリス人技師の驚きは、木曜島で困り果てていたイギリス人経営者に伝わり
経営者たちは、「日本人には精力と成功への強い衝動、および賃金を得たいという
熱望が見られる」という報告を受け、争って日本人ダイバーを採用した。
 
日本人には、このような困難な仕事であっても最後まで工夫をし、
粘り強く取り組み、使命を達する根性があった。
 
1882年、和歌山県出身の中山奇流が卓越した潜水技術で高い評価を得、
和歌山から多くの仲間を呼び寄せたので、ダイバーは和歌山県出身者の
独壇場となっていった。
 
なぜ、命の危険を顧みず和歌山県民が多数、木曜島にやってきたのかは、
1873年の地租改正が関係していた。
明治政府は、地租改正によって地価の3%を地租として現金で納めることを義務付けた。
 
ところが、和歌山県南部はリアス海岸で耕地が乏しく、狩猟や漁業によって
収入を得るしか生きる道はなかったため、現金収入は極めて不安定だった。
 
多くの日本人とくらべ、和歌山県民には狩猟民族的な「一発当ててやろう」という
気質を持っていたことと、地租改正による地租の金納が背景にあったと考えられる。
 
ともあれ、和歌山県民が持つ、進取の気風と思い切りのよさが木曜島でも発揮され
困難と見られた白蝶貝の採取を可能とし、それによって当時としては破格の収入を
獲得することができた。
 
 
1900年にオーストラリアが独立後、オーストラリア政府は日本人移民を禁止した。
しかし、イギリス人経営者にとって日本人ダイバーなしでは事業が成り立たないので、
香港経由での密入国によってダイバーを調達した。
 
 
しかし、第2次世界大戦後はプラスチック・ボタンが普及したため、
貝殻の需要は激減した。
 
かわって白蝶貝の真珠の養殖が行われたが、1960年代末にタンカーが座礁し
流出した油で海が汚染されたため真珠貝は壊滅。
 
およそ90年続いた木曜島の白蝶貝産業は終わりを告げた。
 
現在、木曜島ではイセエビの養殖がさかんになっている。
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